Days in my life

月別: 2016年4月 (page 1 of 1)

SPEAK ABOUT TOKYO IN ENGLISH

レアジョブも2ヶ月続きました。
まだまだ理想にはほど遠い状態だけど、思い切ってはじめてみてよかったです。

「英会話」を誰かに習うのは、これが初めての経験。
やってみて思うことは、当たり前だけど受験勉強の英語の勉強の仕方とは全く異なるということ。

とにかくこの2ヶ月、たくさんの英作文をしました。
下書きも含めると軽くルーズリーフ1冊分はしたと思います。
そしてこうやって‘英語で文を組み立てる’という経験を中学・高校・大学でほとんどやったことないということに、改めて気付きました。

もちろん、受験勉強で習った文法や語彙は英作文を作ったり英語を話したりするにあたってとても大事だけど、それらを使ってアウトプットするトレーニングが日本の学校の英語教育では圧倒的に少ない。
そりゃ、日本人は英語をしゃべるのが苦手なはずだ。

レッスン時間25分、そして予習復習で英作文することはなかなか大変だけど、これが英会話力につながると信じて3ヶ月目もがんばっていこうと思います。

今日はなじみの先生とのレッスンで「東京を案内して」と言われたので、こんな感じで答えてみました。
脳みそフル稼働で瞬間英作文!

————

Tokyo is a huge city,and it’s the biggest city in Japan.
Many people live in Tokyo and there are various type of town which have different culture.

For example,SHIBUYA is famous as a town of the youth,there are a lot of clothe’s shop,CD shop,live-house and so on.

Another town named AKIHABARA has many electric shop,anime shop, maid cafe.
In made cafe,the waitresses dressed in maid cosutumes,and they behave so politely with a sweet,cute voice.
You feel like King.
AKIHABARA is known as the “ Center of Japanese OTAKU culture”

I like GINZA best.
In ginza, I enjoy watching showindows, going round the galleries.

If you come to TOKYO,
You will have totally different experiences where you to go.

東京はとても大きな街で、日本で一番大きな都市です。
東京にはたくさんの人々が住んでいて、異なるカルチャーを持つさまざまな街があります。

例えば、「若者の街」として有名な渋谷にはたくさんの洋服店やCDショップやライブハウスがあります。

また別の街秋葉原にはたくさんの電気店やアニメショップやメイドカフェがあります。
メイドカフェではウエイトレスはメイドの衣装に身を包み、甘くかわいい声でお客をもてなしてくれます。
王様になったかのような気分になるでしょう。
秋葉原は「日本のオタク文化の中心」として知られています。

私は銀座が一番好きです。
銀座ではウインドウショッピングをしたり、ギャラリー巡りをしたりします。

もしあなたが東京に来るならば、どの街に行くかによって全く異なる経験をするでしょう。

————

ところどころ先生に直してもらいながらだけど、こんな感じで説明できる程度にはなりました。
へたっぴな英文載せるのはかなり恥ずかしいんだけど、自分の成長の記録として。

畑仕事

晴れの土曜日の朝、父が丹精込めて耕していた畑の様子を見に行った。
うーむ…
年が明けてからほとんど手入れ出来てなかったので、見事なワイルドっぷり!

結構な広さがあるので、まずは2畝ほど整えて新しく何かを植えれるよう下準備することに。
ふだん野良仕事を全くしないので、雑草を抜くだけでもなかなかの重労働。
小さな助っ人もせっせとお手伝い。
おじいちゃん仕込みのスコップを持つ姿も、なかなかサマになってる。

「若い頃、じーちゃんに教えてもらってん!」と力説する4歳児。
‘若い頃’って…笑。


ちょうど空豆が収穫の時期を迎えていた。
その名のごとく、さやが空を向いてスクスクと育っていた。
大好物だけど買うと結構な値段がするので、これはうれしい。
豊作にほくほく。


土を掘り起こすといろんな虫たちが顔を出してきた。
どこかから種が飛んできて根づいたナガミヒナゲシもたくさん花が咲いてて賑やか。

ちょっとずつ耕してベランダのプランターではなかなか育たないハーブをいろいろ植えてみようかなと。
あんまり手をかけずおいしいものが収穫できる畑にしたいなあと、まずはいろいろ情報収集中。
ゴールデンウィーク中に何か苗を植えたり、種蒔きできるといいな。

フィリピン語とイタリア語の共通点

フィリピンの言葉で「元気?」は“kumusuta(クムスタ)”と言うんだそう。
これはスペイン語から由来してるんだって。
フィリピンがかつてスペインの植民地だった名残がこんな形で残ってるんだ!

私はスペイン語はさっぱり分からないんだけど、昔ちょっぴりかじってたイタリア語では「元気?」は“Come stai?(コメスタイ)”と言うことを思い出した。
似てる!
イタリア語とスペイン語はどちらも同じラテン語がルーツだから似ているのは当然だけど、まさかフィリピンで言葉がそんな形で発展して使われてるなんて。
言語っておもしろい。

2003年のちょうど今くらいの季節に、ローマの安宿に1週間滞在していた。
宿を切り盛りしているシスターたちと毎朝
———
Ciao!(おはよう)
Come stai?(元気?)
Tutto bene,e tu? (元気よ。あなたは?)
Bene grazie.(元気よ。ありがとう)
———
なんて会話を交わしていたのを思い出した。

エクアドル出身のおばあちゃんシスター、まだローマにいるのかな。
元気だといいな。

今日覚えたり使ったりしたフレーズ

How do I greet someone in Filippino?
フィリピンではあいさつはどうやるの。
Just wave and say “kumsuta”
手を振りながら「クムスタ(kumusta)」って言います。
“Kumsuta” is derived from Spanish.
「クムスタ」という言葉はスペイン語に由来する。
After Spanish colonization,which country colonize the Phillipinos?
スペイン統治が終わったあとはどこの国がフィリピンを統治ましたか。
Many Fillipino speak American English due to American colonial influence in the country education system.
アメリカ食味日時代の教育システムの影響で、多くのフィリピン人はアメリカ英語を話します。

キラキラ青春オーラ

週末のこと。
友達の娘が希望していた高校に合格したので
少し遅くなってしまったけど合格&入学祝いをお届けに。

「志望校に受かったらプレゼントするよ!」と約束していたもの。
中身は内緒。

部活が終わるお昼過ぎには戻ってくるとのことだったけれども、
待てども帰ってこない。

なので友達が用意してくれたお昼ごはんで、
2人だけでエンドレスなおしゃべりランチタイム。
さんざんしゃべり尽くしてそろそろおいとましようとしてた頃に、主役が帰宅。
数ヶ月前に会った時よりも背丈も伸びて、すっかりお姉さんに。
はじまったばかりの高校生活が楽しそうで何より!
キラキラの青春オーラが眩しかった。

帰宅する頃にLINEで「ありがとう!」とメッセージが届いた。
そっか、自分のスマホ買ってもらったんだね。
小さい頃から知ってるので、こういうやり取りをするのがなんか不思議な感じ。

「困ったことがあったらいつでも連絡してきてよ!」

と、まるで親戚のおばちゃん気取り。
でも、本当にそんな気持ち。

あと数年したら一緒にお酒も飲めるね。
それも今から楽しみ。

主治医の先生

ずっと父がお世話になった主治医の先生のところに、母と一緒にあいさつに伺った。

父はこの先生のことが大好きで
「先生に命を預けてるから」
と、全幅の信頼を寄せていた。

できることはできる、できないことはできないと、
ズバッとはっきり物事を伝えるのが、父の性格に合ってたんだと思う。
また、むやみやたらと抗がん剤治療を勧めないところも、私も好ましいと思ってた。

家族がガンと診断されたら、おそらく多くの人はまずネットで情報を検索したり、本屋で参考になりそうな本を探したりすると思う。
そして玉石混合で溢れかえる情報に、かえって混乱してしまう人も多いのではないかと思う。
私もそうだったように。

そういった点から、患者自らが主治医のことを心から信頼して積極的に治療に臨めるのは、ある意味とても幸せなことなのではないかと思う。

主治医の先生はとても忙しい診察の合間をぬって、話をする時間をつくってくださった。
これまで気丈に振舞っていた母も、先生の前では涙ぐむ姿を見て、
ずっと父と二人三脚で病と向き合ってきたんだということを改めて強く感じた。
そしてようやく涙を見せることができた母を見て、ちょっとホッとした。

「お父さんから学ばせてもらったことがたくさんあります」と、主治医の先生。
先生がこれまで治療してきた患者の中でもベスト3に入るほどの我慢強さだったそう。
そして、どんな時も前向きだったと。
そうなんだ。

この4年間ガンという病を通して、父のことを1人の人間として深く知るきっかけを与えてもらったように、この頃よく思うのです。

父の旅立ち

長らく病と闘ってきた父が、4月2日に旅立ちました。

「沈黙の臓器」と言われる膵臓に癌が見つかったのが4年4ヶ月前、
2011年の年の瀬も押し迫る頃でした。
ちょうどその時、父にとって初孫となる甥っ子が妹のお腹にいました。

「孫ができるなら長生きせな!」と、
もともと体がとても丈夫な父は ‘健康という太鼓判を押してもらう’くらいの気軽な気持ちで近所のかかりつけ医で検診を受けたところ、膵臓に影がみつかり、県立中央病院で精密検査、そして直ちに手術となりました。
この時点で「ステージⅣ-a」という、いわゆる末期ガンの状態でした。
膵臓癌が「ガンの王様」と呼ばれるほど予後の悪いガンであるということも、私はこの時初めて知りました。

けれども無事手術も成功し、幸い抗がん剤の副作用も少なく、その後も毎朝散歩にでかけたり、畑仕事をしたり、仲良くしていただいている同級生の仲間たちと遊びに出かけたりと、マイペースに父らしく日々を過ごしていました。
病気ということを知らなければ、どこからどう見ても健康そのものでした。

そして手術から1年半後に肝臓と肺に転移しているのがみつかりました。
その時はさすがにショックを受けていたようだったけれども、信頼できる先生に恵まれ、前向きに弱音のひとつも吐くことなく病と向き合っていました。
この文を書いていて気付いたけど、そう、まさに「向き合う」と言った言葉がぴったり。

病に対してがむしゃらに立ち向かうというより、自分の体に起こったことを受け止め、その時できることを自分なりに考え行動に移していたように思います。

「絶対に病人扱いしないで欲しい。病気と病人は違う」と、
父は家族には厳しいくらいに“いつも通りの生活をすること”をずっと強く望んでいました。
また父自らも 病を抱えながらも自分らしくいつも通りの生活を楽しんでいたように思います。
主治医から許可が出たらすぐさまお酒も飲むし、友人たちとせっせと遊びに出かけるし 笑。

だけど、今年に入ってからだんだんと体力がなくなり、家で過ごすことが多くなりました。
抗がん剤などの積極的な癌治療を終え、訪問医療の医師や看護師にお世話になり自宅で療養していたけれども、いよいよ痛みがひどくなってきてホスピス専門病院へ。
最期の12日間は緩和治療のプロフェッショナルな医療チームに父も家族も心強く支えられ、濃密な父との時間を過ごすことができました。
そして、あたたかな春の光が差し込む部屋で家族全員に見守られながら穏やかに息を引き取りました。
身内ながらも、本当によくがんばったと尊敬します。
父らしく最後まで自分の「生」を生ききったのではないかと思います。

自分の葬儀についても生前「こうして欲しい」とはっきりと言っていたので、できるだけ父の希望に沿う形になるよう、家族と力を合わせ娘としてできる限りのことをしました。
お陰で、満開の桜の中たくさんの人たちに見送ってもらうことができ、うれしかったです。