Days in my life

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「カーネーション」と7月4日。

この春から再放送している
朝の連続テレビ小説「カーネーション」を録画して見るのが、
毎日のささやかな楽しみです。

2011年の秋に放送されていた時も毎日見ていたはずなのに、
7年前は気づかなかった新しい発見がたくさんあります。
ヒロインの尾野真千子さんや周りを支える役者の方々の演技も魅力的で、
何度見ても見飽きることがありません。

ヒロインのモデルとなった小篠綾子さんは大正2年生まれで、
100歳で天寿をまっとうした大正元年生まれの私の祖母とひとつ違い。
なので、ヒロインの生きざまを通して、
祖母の生きてきた時代を垣間見ているような気がします。

母や叔母に聞いた話によると、
戦前に輸出業を営んでいた祖母の実家はとても繁盛していたようで、
実は祖母は結構なお嬢様だったよう。
娘時代には大阪や神戸にしょっちゅう連れて行ってもらっていたそうです。

けれども戦争で実家の稼業は傾き、
戦後しばらくして夫を病で亡くし、
女でひとつで子どもを育て上げ、
それがどれほどの苦労だったか
私自身が顧みることができるようになったのも
そんなに遠い昔ではありません。

まだ私が小さかった頃、
いつもやさしかった祖母の話で、
恐ろしくてあまり聞きたくなかった話がひとだけあります。

今からちょうど73年前の7月4月に起こった徳島大空襲の話。
空から焼夷弾が火の雨のように落ちてきて、
焼け野原になった町で黒焦げになった屍体をたくさん見かけたことなど、
幼い私にはどうして怖くて、祖母の話を遮ったことも何度かありました。

空襲に遭った頃、祖母のお腹には母が宿っていました。
どんな気持ちで、焦土となった町を眺めその後の敗戦を迎えたんだろう。
そんなことも、晩年にちゃんと聞いておけばよかったと思います。

そして
哀しいことだけじゃなく、
どんなことが好きだったのか、
どんなことをして遊んでいたのか、
どうしておじいちゃんと結婚したのか、
いとこや私たち姉妹が生まれた時はどんな気持ちだったか、とか。

今となっては聞くことはできないからこそ、
「カーネーション」のヒロイン糸子を通して、
おばあちゃんの生きてきた時代を知り、
おばあちゃんはその時どんなことを考えていたのか想像することで、
時々、心の中で対話しているような気分になることがあります。
ぬくぬくとした時代に育ってきた私なんかよりも、
ずっとずっと心が強かったと思います。

ヒロインの育った岸和田の町。
この時だんじりを一緒に見ていた父も、もういません。

歳を重ねるごとに、
夏は生と死を色濃く意識する季節になってきているような気がします。

近くの公園からは阿波踊りの練習の音が聞こえてくる、平和な夜。
阿波踊りの運営自体は、なんだか穏やかではないけれどねぇ…。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32613590U8A700C1LA0000/

運動会

もう10日以上前の話。

甥っ子の小学校初めての運動会がありました。
これまでのように、甥っ子専属カメラマンとして参上。

元城下町だけれども
ドーナツ化現象で少子化が進み、
1学年ひとクラスのみで
全校生徒数130名ちょっとの小さな公立小学校の運動会は
地域の町内会やら老人会の方も大活躍。
一緒に玉入れをしたり、綱引きをしたり、アットホームな雰囲気。

そして、上級生がテキパキと種目の準備をしたり
下級生のお世話をしたりする姿が、とても頼もしかったです。

クラスの中でもチビッ子の甥っ子くんは、
お兄さんお姉さん、地域のおじいちゃんおばあちゃんに甘えるのが、さりげなく上手。

私立の幼稚園に通っていた時とはまた違った雰囲気で楽しめました。

彼の母親である妹や、父である義弟にとって故郷ではないこの町が
こうして少しずつ甥っ子にとっての故郷になっていくのだなと
改めて感じた1日でした。

三回忌を終えて

日曜日は父の三回忌でした。

父が息を引き取った時にはまだ4歳になったばかりで
その後の法要の時にずっと座っていられなかった甥っ子も小学校に上がり、
お客さんにお茶をふるまったり、愛想をふりまいたりしている姿を見て
時の流れを感じました。

実家の庭は春爛漫で、花盛り。
母は草花を育てるのがとても上手です。

これまでは父の趣味の盆栽が
ずいぶんとスペースを占領してしまっていたんだけれども
これからは、もっと自分の好きなことを好きなように
楽しんでもらえたらいいなと思っています。

ガーデニングだけじゃなく、母のこれからの人生も。

しかし、
両親とも“グリーンフィンガー”を持っているのに
哀しいくらいにちっとも受け継がなかった私…。

ベランダで枯れてしまった植物たちを片付けて、
そろそろバジルの苗でも買いに行こうかな。

2年前

Macのハードディスクがいっぱいになってきたので
デジカメで撮った写真データを少しずつ整理しています。

これはちょうど2年前の3月26日に撮ったもの。
北海道新幹線が開通したというニュースを
父の入院しているホスピスの病室で見ていました。

この頃、
4歳になったばかりの甥っ子のマイブームがプラレール。
北海道新幹線の車両にも夢中だったので
「元気になったら、みんなで乗りに行こうね」
なんて話を、父と母としていました。

楽天的に考えたい私は、
何か奇跡が起きる可能性がゼロではないことを、
この時点でもまだ信じて疑っていませんでした。

でもきっと父は自分の体の状態を
誰よりもよくわかっていたのではないかと、
今になって思います。

余命が月単位から週単位に、
そして日単位から時間単位へと刻一刻と変わっていくなか、
家族で過ごした穏やかな時間を、懐かしく思い出しました。

父は病が分かってからずっと、
家族には“いつも通りの生活をすること”を強く望んでいました。
厳しいくらいに。

2年前の3月や4月のブログを久しぶりに読み返してみて、
私も平常心を保つため必死だったことも、思い出しました。

しかし、ブログで振り返ってみてみると
看病しながら仕事もして、
よく英語の勉強も途切れず続けられたなぁ。
そしてブログ書くことも。
もうあの時の感情をあの時と同じように思い返すことはできないので、
書き留めておいてよかったなと、改めて思います。

今、年度末の締め切りで
とにかくバタバタしていて胃が痛く余裕がない毎日なんだけど、
あの頃のことを思い出すと、なんとか乗り切れそうな気もしてきました。
いや、乗り切らないといけないんだけど。

造船所のある港町

生まれて初めて “船底”を見ました。
今日は港町の造船所へ。

ちょうど船の検査をしているところを見せてもらうことができました。

亡くなった父は船の検査技師をしていました。
転勤の多い仕事で、小さな頃から家族で港のある町を転々としていました。
父の病が見つかってから、
両親と私でかつて家族で住んでいた港町を訪ねる旅に出ました。

旅先で父がいつも行きたがったのは、造船所のある場所。

母や私はまったく興味がないにもかかわらず、
おかまいなしで行き先を決める父…笑。

あまり仕事のことを家で話さない父だったけれども
父が働いていた現場の様子を
ほんの少し肌で感じることができた貴重な経験でした。

ウルトラマンが守るもの

ウルトラマンが守るもの
ピンボケ写真。
マラッカからクアラルンプールへの帰り道、
ウルトラマンの大きな立て看板を見かけたので、慌ててシャッターを切りました。

ウルトラマンに夢中の5歳の甥っ子に
「マレーシアにもウルトラマンいたよ!」
とLINEをしたら、ふーん…とつれない返事。

「だって、ウルトラマンは地球を守ってるんやから当たり前やん」だって。

ウルトラマンの種類を覚えられない伯母は
最近すっかり見下されています。

そんな彼にも、今日市役所から小学校への入学通知書が届いたそう。
4月から1年生か。

1年

明日は父の命日、そして一周忌です。
お墓の掃除に行った母によると、
霊苑にはすでに満開の桜もあったとのこと。

いろんなことを思い出すけど、
じっくり感傷に浸る時間がないまま月日が流れていきます。
でもそれはしあわせなことなんだろうな、とも思います。

明日はお天気も良さそうで、よかった

ホスピスの窓から

1年前の今頃は
父が入院したホスピスの窓から夕暮れの風景を、毎日眺めていました。

「一生を24時間に換算すると、
 父は今何時何分頃になるんだろう」

なんてことを、よく思ってました。

桜が開花しはじめる頃、一周忌を迎えます。

昨年は桜の開花が楽しみである一方
それは父の命のリミットが刻一刻と近づいていることを意味することでもあったので
複雑な気分で過ごしていたけれども
今年は、ただただ桜が咲くことが待ち遠しい気分です。

ふだんあまり読み返すことのない自分のブログの1年前の投稿を見てみると
看病の合間によく冷静にブログを書いてたなぁと思います。
しかも他愛もないことばかり 笑。
http://www.pecograph.com/note/?m=201603

ホスピスで父と家族と過ごした12日間は
本当に穏やかで、かけがえのない濃い時間でした。

いろんなことがあったけれど
今こうして振り返ると、1年があっという間に感じます。
“父がいない娘”として、初めて4つの季節を経験したことになるんだな。

書き留めておきたいと思うことも、また書きたい気分になったらそのうちに。

畑仕事

晴れの土曜日の朝、父が丹精込めて耕していた畑の様子を見に行った。
うーむ…
年が明けてからほとんど手入れ出来てなかったので、見事なワイルドっぷり!

結構な広さがあるので、まずは2畝ほど整えて新しく何かを植えれるよう下準備することに。
ふだん野良仕事を全くしないので、雑草を抜くだけでもなかなかの重労働。
小さな助っ人もせっせとお手伝い。
おじいちゃん仕込みのスコップを持つ姿も、なかなかサマになってる。

「若い頃、じーちゃんに教えてもらってん!」と力説する4歳児。
‘若い頃’って…笑。


ちょうど空豆が収穫の時期を迎えていた。
その名のごとく、さやが空を向いてスクスクと育っていた。
大好物だけど買うと結構な値段がするので、これはうれしい。
豊作にほくほく。


土を掘り起こすといろんな虫たちが顔を出してきた。
どこかから種が飛んできて根づいたナガミヒナゲシもたくさん花が咲いてて賑やか。

ちょっとずつ耕してベランダのプランターではなかなか育たないハーブをいろいろ植えてみようかなと。
あんまり手をかけずおいしいものが収穫できる畑にしたいなあと、まずはいろいろ情報収集中。
ゴールデンウィーク中に何か苗を植えたり、種蒔きできるといいな。

主治医の先生

ずっと父がお世話になった主治医の先生のところに、母と一緒にあいさつに伺った。

父はこの先生のことが大好きで
「先生に命を預けてるから」
と、全幅の信頼を寄せていた。

できることはできる、できないことはできないと、
ズバッとはっきり物事を伝えるのが、父の性格に合ってたんだと思う。
また、むやみやたらと抗がん剤治療を勧めないところも、私も好ましいと思ってた。

家族がガンと診断されたら、おそらく多くの人はまずネットで情報を検索したり、本屋で参考になりそうな本を探したりすると思う。
そして玉石混合で溢れかえる情報に、かえって混乱してしまう人も多いのではないかと思う。
私もそうだったように。

そういった点から、患者自らが主治医のことを心から信頼して積極的に治療に臨めるのは、ある意味とても幸せなことなのではないかと思う。

主治医の先生はとても忙しい診察の合間をぬって、話をする時間をつくってくださった。
これまで気丈に振舞っていた母も、先生の前では涙ぐむ姿を見て、
ずっと父と二人三脚で病と向き合ってきたんだということを改めて強く感じた。
そしてようやく涙を見せることができた母を見て、ちょっとホッとした。

「お父さんから学ばせてもらったことがたくさんあります」と、主治医の先生。
先生がこれまで治療してきた患者の中でもベスト3に入るほどの我慢強さだったそう。
そして、どんな時も前向きだったと。
そうなんだ。

この4年間ガンという病を通して、父のことを1人の人間として深く知るきっかけを与えてもらったように、この頃よく思うのです。